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下記内容はジャバウォックさんたちの愛国心をめぐるいくつかのエントリーについて 自分なりに考えたことをまとめたものであるが、なんだか遅きに失っしてしまった感がある このエントリーについてはとりあえず公開はするが、次のエントリーと対になっているので、 今のところコメント欄は閉じさせてもらう。 愛国心について、リベラルな人間がいろいろ書くと、「日本という国家のインフラを利用いるのに、それに感謝をしないとは何事だ」とか果ては「愛国心が無いなら日本から出て行け」なんていうコメントまでついてしまうようだ。 前から、愛国心についてはいろいろ書こうと思っていたので、エントリーしてみることにする。 それにしても、こういうコメントをつける人々の言う愛国心とは、随分単純だなあと思う。 こういう「単純な愛国心」に対して、繰り広げられている反論は「愛国とは、愛政府とイコールではない」ということや「税金を払っているのだから、国家を動かしている機関に対して文句を言って当たり前だ」というものだ。 なるほど、それは当然だ。単純な愛国心というのは、「お上に楯突くな」という日本の因習そのものだと言えよう。そもそも、民主主義国家において公務員というのは、公僕に過ぎないのだ。我々市民の利益を支えてこその公務員であり、その利益を損ねていると判断されたのなら、感謝されなくて当然だ。 だが、こういった件については、もう既にジャバウォックさんやサンドさんが色々書いているので、深くは突っ込まないことにする。私はほぼ彼らの意見に同意する。 上のこととは違う視点から、「愛国心」について解体してみたい。 ●愛国心の欠如=公共心の欠如ではない。 愛国心にこだわる人は、この二つを同一だと考えている。「公」という言葉も、保守的な人がやたら使いたがる言葉で、使用方法には注意が必要だし、厳密に使用するならば、このあたりの本を読む必要があるのだろうけれど、ここでは社会のルールやマナーを守ることぐらいの定義にする。 税金を払う、ゴミは分別する、人を殴らない、交通ルールを守る、人と会ったら挨拶をする、程度のことだと思ってもらえれば良い。「単純な愛国心」の人々は愛国心を徹底させれば、こういう公共心が育まれると考えているようだが、それはおかしい。この国にいる限り、外国人でも猛スピードで車を暴走させてはいけないし、人の家にあがる時は靴を脱がなくてはいけない。 また、日本人が外国に行ったときも、その国に対して全く愛が無くても、その国のルールやマナーに従わなくてはならない。たとえその人が典型的な今時の右派で、中国が大嫌いであっても、もし仕事で中国に行かざるを得なくなったら、中国のルールに従わなくてはならないのだ。 こういう公共心は、右翼でも左翼でも、リベラルでも、外国人でも、子供でも大人でも、ギャルでもオタクでも、価値観の違う人々が社会で無駄な衝突を避けるためのスキルであって、価値観そのものとは関係がない。 しかし、公共心にはなぜ、それが大事なのか、という崇高で絶対的な根拠を必要な人々がいる。なるほど、日本人として恥ずかしくない行動を、ということだ。 けれども、それは「聖書にそう書いてあるから」とか「釈迦如来がそう言ったから」とか、「親の顔に泥を塗りたくない」とか、そういう根拠と同列なのだ。「日本人として恥ずかしくない」というのは、その中で、勝っているわけでも、劣っているわけでもない。また、根拠を「日本人だから」のみにこだわるなら、外国人に対して「彼らは日本人ではないから、酷いことをするに違いない」というような差別意識や、外国でなら何をしても良い、という旅の恥は掻き捨て的な行動に結びついてしまう可能性がある。こういったことに繋がらなければ、「日本人として恥ずかしくない」を公共心の根拠にしても良いだろう。だが、それは個々人の勝手で、他人に強要することはできない。 クリスチャンが信仰を持つのは勝手だし、聖書には良いことが書いてあると思っていても、 「キリスト教の洗礼を受けなければ、あなたは犯罪を起こしてしまうから、絶対に洗礼を受けなさい」と強要されたら誰だって嫌だろう。それと同じだ。 ただ、これがリベラリズムの限界だと思うのだけれど、公共心にとどまらず、その人の生きる意味を保障するような崇高で絶対的な根拠、宮台なら「世界」と呼ぶような自己の外、社会の外に存在する圧倒的な存在感を放つ、宗教的な「何か」が、社会の中で相対的でしかないというのは、とても不安定なものになる。 例えば、新興宗教の信者は傍から見れば、危ない人に見えてしまう。このように、個人化された崇高さが、当人にとって絶対なものが、社会によって、相対化、あるいは否定されてしまっては、その人の中で絶対的な真理として結実できないのだ。 世界の真理が、社会の真理になり、個人の真理にもなるという、真理として完全な形を作ろうとするならば、全ての人々が同じ世界の真理を共有しなくてはならなくなる。 彼らが、「日本」なるものにどれだけ真理を求めているのか、疑問もある。2chに集うような人の中には単に差別をしたいだけにしか見えない人も多いし、単なる「反・反体制」を演じることによって、左側の言葉を「バカな理想主義者」とみなすことで、ニヒリズムに浸っているだけに見える人もいる。 右派ブログの「太陽に集いしもの」さんが「ネットウヨク」を指して「反・反体制の僕ちゃんたち」と呼んだが、理想として「日本」をはっきりとした形で掲げている人にとっては、2ch的な右巻きの行動がとても拙く見えるのは良く分かる。だが、2ch的な右巻きの行動は単なるニヒリズムではないと思っている。ニヒリズムの皮の下からは、大いなる崇高な「日本」への希求が透けて見えるように思う。右巻き言説の内部で、何が理想かを問うていけば、右同士での分裂が起こるのは避けられないし、そもそも理想を持つ、ということが暑苦しくて恥ずかしい。左側や、東アジア諸国へといった他者への攻撃を続けている限りにおいて、「日本」なるものの中身は棚上げされ、ニヒリスティックな視線を保ったまま、大いなるものに同一化することができる。 「ネット右翼」という存在はいないそうなので、単純な愛国心でリベラル派のブログの批判を行う人と、2ch的なニヒリスティックな視座は連続しているとは思うが、同一であるとは限らないことは一応、断っておく。 しかしながら、他者を叩くことによって、「日本」なるものを純化させていこうとする人に対して、愛国心なんてなくてもいいじゃないという視点やさらに、従来どおりの定型句で「大事なのは、国境よりも人権」だとか、「愛国心は軍国主義的な動員につながる」と訴えても、それは、彼らのロールプレイング通りの「サヨク」を演じることになり、彼らの同一化をますます強めるだけ、という無力感がつきまとう。このことについては次のエントリーで述べたい。 ●愛国心=郷土愛をはじめとするそのほかの同胞とは必ずしも同一ではない。 愛国心は、自分の出身地や家族を愛することと、必ずしも一致しない。むしろ、郷土を愛すれば愛するほど、日本という国家が嫌いになることもある。 沖縄を思い浮かべれば分かりやすいだろう。沖縄戦で多数の死傷者を出し、その後アメリカ占領され、現在でも多く基地を抱える沖縄は、明らかにこの国の中で「ワリを食っている」場所である。さらに文化的にも独自性を持っている。右巻きの人々は「愛国心を持つことは自然」と主張するが、果たしてそうだろうか。「お前、日本人だろ」という同調圧力は、「その前にウチナンチュだ」という言葉の前に無力だ。 別に愛国心よりも郷土愛が大事なのだと言いたいわけではない。自分の家族が共同体の中で村八分のような憂き目にあっているのなら、郷土を憎んだっていい。 人が自分の所属する集団に愛着を覚えることは確かに自然なことなのかもしれない。しかしながら、そこで自分自身や自分の所属する集団が不利益をこうむっていた場合、国家や地域を憎むこともまた自然だ。政府や地方自治体に限らず、例えば、ハンセン病患者たちのように、普通の日本人たちによって差別され、長い間こうむってきた不利益を無視され続けてきたのなら、「私は日本人が嫌いだ」と主張しても構わない。 国を愛することも自由だが、国を憎むことも自由なのだ。国家に対し憎しみを覚える人に対して、そこでこうむっている不利益に目を向けずに、「国を愛さないとは売国奴だ」と言うのは不道理だ。 日本を愛せない奴は日本に住むな、とさえ主張する人もいるが、それは日本という国家の幻想を補強しても、ワリを食っている人々の声を封殺し、現実を醜くゆがめるだけだ。 こういうことを書くと、そういうワリを食っている人々の存在を利用した「プロ市民」どもの自己欺瞞が気に食わないという意見がつくことが想像できる。確かに、弱者利権なるものも存在するし、人々の善意を踏みにじった募金詐欺のようなものもあることも知っている。だが、それはそういう個別の例を正していけば良いだけの話であり、前提そのものを覆して良いわけではないと思う。 それから、便宜上プロ市民という言葉を使ったが、過激な政治思想や、暴力行為を刷り込まなければ、市民運動を職業的に行う人がいても良いと私は思っている。 私が愛国心をめぐる話を追っていて感じた違和感は、自己愛があまりにも単純に国家へショートカットしていることだった。だから、それを単純な愛国心と呼んでみた。その間に立つべき地域やら家族やらが抜け落ちている。ネット上で、右巻きの主張をする人々はなんとなく、郊外のベッドタウンで育って、地域の学校的な価値観に辟易して生きてきた、十代後半から二十代の若者というイメージを持っているが、そういう反応を見ても「多分そうなんだろうな」と思わせる。もちろん、想像に過ぎないし、例外もたくさんあるだろう。 伝統から切り離され、無国籍に空洞化した郊外の街に育ち、空洞化した社会に不安を抱えて生きることを余技なくされたとき、「日本」という幻想ががせりあがって来ざるを得なくなる、そういう印象を抱いている。もちろん、それは印象に過ぎないことは断っておく。前に「箸も持てない奴が愛国心を主張するな」というようなエントリーをしたことがあったが、今は思う、もう箸も持てなくなってしまったから、美しい幻想としての「日本」が希求されてしまうのだと。 私の好きなアーティスト、ビョークのアルバムにホモジェニックというタイトルのものがある。英語はあまり得意ではないのだが、ホモジェニックとは単一性とか均一性という意味だそうだ。そのアルバムタイトルはビョークがアイスランド人としての、自分のルーツを手繰る意味でついた。 私は日本人としての愛国心を持つことは、当然のこととも、自然なこととも思わない。だが、「愛国需要」がひどく高まっていることは事実だ。ホモジェニックな欲望はどこまでもせりあがってくる。だが、不利益や差異を封殺しての単一化が社会にとって利益になるとは思わない。それでも自由を求めろ、としか私には言えないのがもどかしい。この点についても、次のエントリーで考えてみたい。 #
by fortuna21
| 2005-03-21 02:00
| ニュース雑想
ホリエモンのキャラは、藤子・F・不二雄じゃないからな、Aの方だからな、間違えるなよ。 と、なんだかキャラが迷走しているフォルトゥーナです。 このブログ、なんだか週末限定投稿と化している感がある。 ライブドアの件については、弱小ブログながら、それなりに反応を頂いた。 ライブドアへの支持、不支持はいわゆるウヨサヨの分類とは無関係に発生していて面白いが、どちらかと言うとリベラルな人々の方が、あえて支持を表明しているような印象を受ける。 だが、今回、堀江不支持を「あえて」表明した私から一つ言いたいことがある。 お前ら、そうやって、小泉が首相になったときも諸手をあげて歓迎していなかったか? というか、私もしていた。(苦笑) ブームとか言って、純ちゃんグッズを買いあさる人々には引きつつも、森派なことは知りつつも、何か変えてくれるだろうと期待していた。 確かに変えてくれた。悪いほうに。 当時はブログなど存在しなかったし、当時からずっとサイトを続けている人もなかなかいないだろうが、今は反対派に回っていても、私のように良く考えずに「自民党をぶっ壊す」だの、「構造改革の痛み」なんて言葉に流されていた人も多かっただろう。 思うに、我々は「ぶっ壊す」という言葉に弱すぎる。壊せばなんでもいいのか? 小泉が首相になった頃、読んだ記事の中で興味深かったものがある。小泉の反逆児風のキャラ作りやら、後にワンフレーズと揶揄されることになる、印象的な言葉で人を引き付けるところだとかは、選挙区のリベラル派を巻き込むために生まれたというのだ。 小選挙区制施行後の現在は違っているが、小泉が議員として頭角を表してきた頃、この国の選挙制度は中選挙区制で、今よりも選挙区が広かった。その当時は鎌倉、逗子の2市と葉山町も小泉の選挙区に含まれており、その地域は他の地域より、リベラル層が厚いのだと言う。 そのリベラル層対策のためにうまれたのが、あの一連のポーズなのだという。 随分昔の記事なので、出典は忘れてしまったし、似たような話はネット上で見つけることができなかったので、かなりいい加減な話であることは断っておく。そもそも、本当に湘南のあの地域のリベラル層が厚いと言い切れるのかどうか分からない。(何しろ、石原家があるし、現在選出されている民主党の大石尚子氏は、詳しくは知らないが、プロフィールを見たところ、湘南合気道連盟の会長だったり、戦艦三笠の保存会に所属していたりして、あっち系の匂いがするし) ただ、この話が本当だとするならば、リベラル連中はとりあえず、現状打破の姿勢さえ見せておけば中身が何だって付いてくるだろう、と見くびられていたということにならないか。 ライブドアをめぐる動きを見ていても、そのことを思い出させる。 たしかに、現在の報道は、記者クラブ制に代表されるように、閉鎖的な悪しき慣習に支配されている。私も記者クラブの撤廃に賛成だし、記者クラブ制を廃止した長野県や鎌倉市(あっ、やっぱリベラル?)の動きは支持している。故に堀江社長に風穴を開けてもらいたいというのもとても良く分かる。 また、前回のエントリーでも丁寧なコメントを頂いた、ニュース置き場。さんが指摘しているように、あのような方針では巧くいかないし、風穴だけ開けてくれて、そのままライブドアは潰れるのではないかとの指摘もある。たしかにありそうな話ではあるし、そうなってもらえたら有難い。(笑) もしかしたら、ビデオニュースの二人はそこまで見越しているのかもしれない。 だが、堀江氏がここまで上り詰めるまでには、快堕「天」論さんが指摘しているようにかなり後ろ暗い側面がある。 また、堀江氏は徹底したポピュリストであり、堀江氏が目指すメディアのあり方はあくまでも、ウケればそれでオッケーな「資本主義的」なものであり、「民主主義的」なものではない。 ライブドアや一連の関連会社は、お抱えのライターを使って、ライバル会社の製品の誹謗中傷をさせていた、という話も一部ではささやかれていたり、バックにはネット上では既に大きな発言権を得ている連中がおり、(仲違いしているという話もあるが)ウケるためには何でもする可能性がある。 現状打破を望むあまりに、「ぶっ壊す」という言葉にだけ反応していたのでは、どんな香具師でも、「ぶっ壊す」だけ連発していれば、我々は諸手を挙げて受け入れてしまうのではないか。 肝心なのは、どう壊すか、壊した後どうなるかを吟味することだ。 忘れるな。 ホリエモンのキャラは、藤子・F・不二雄じゃないからな、Aの方だからな、間違えるなよ。 追記:今回はリベラルへの批判ということで展開したが、同じことは保守派さらには「ネトウヨ」諸君にも言えることだ。彼らは「戦後民主主義的日常」への現状打破として、改憲や、愛国心教育、反ジェンフリに飛びついている。だが、その先どうするのかを吟味していなければ、同じなのだ。というか、現状打破を願うあまりに、容易に危険なものに飛びついているとしか思えないところが、彼らのもっとも嫌なところである。(その辺のことは後々述べるので、ここでは飛びつかないこと。飛びついてきたら、即効削除します) 私もリベラルな人間なので、「わーい、リベラルがリベラルを批判しているー」と不用意に喜ばないように。 #
by fortuna21
| 2005-03-06 12:40
| ニュース雑想
気が付いたら、13時ぐらいまで寝ていた。これだから、休みの日は良くない。 それにしても、前のエントリーから時間が空きすぎ。体調が悪かったり忙しかったりして、ずっと放ったらかしになっていた。 ライブドアの話で経済に関することは、まるで分からない。だから、ライブドアの時間外取引がどう、とかニッポン放送のフジテレビ向け新株発行がどうとかについては、まったくコメントできない。 そういうことは詳しいブロガーのみなさんにお任せする。 私はニッポン放送、強いてはフジサンケイグループが、ライブドアの傘下に下ることが良いことだとは到底思えない。私はフジ・サンケイグループの論調には全く同意しないが、ライブドアに乗っ取られることの方が恐ろしい。せいぜいあってもいいのは、ディノスがライブドアデパートと合体することぐらいだ(笑) 買収後どうするのか今後のビジョンが見えない、という指摘はよくある。だが、私は堀江社長は別にビジョンを持てないのではなく、敢て持たないのではないか、と思っている。江川紹子ジャーナルの記事によれば、堀江社長が目指すのは、「人気が全てを決める」ようなメディアだという。つまり、今後の方針についてさえ、世の中の大衆様にお任せということではないか。 つまり、堀江社長は徹底したポピュリストなのだ。ネットを媒介としたポピュリズム!なんて恐ろしいメディアなんだろう。 堀江社長が言うような「人気が全てを決める」傾向というか、「視聴率が全ての傾向」というのは、現在のテレビ報道などにも既にある傾向だ。「視聴率が全ての傾向」が例えば、松本サリン事件の時、河野さんを犯人に祭り上げてしまったような集団加熱報道を生み出す。集団加熱報道は事実よりも「あいつが悪者だ」という感情が先行し、正確な判断を見失う。 堀江社長が目指す、人気が全てのメディアとはこのような集団加熱報道に、ブログや掲示板を巻き込むような形になるのではないだろうか。つまり、「祭り」による世論形成だ。誤報だろうが、冤罪だろうが、過熱した祭りの参加者たちには見過ごされる。正義を振りかざしているつもりで、弱いものイジメに堕してしまう危険性が常につきまとう。 今までは報道機関だけの問題だったのが、ユーザーも巻き込まれることで、より正確な事実が見失われやすくなるし、もし間違いが見つかっても、祭りに乗ったユーザー側の責任は問われない。これは本当に恐ろしい。 現状では、ライブドア側の敗北に終わりそうだし、そもそも、今後の方針によっては、単なる杞憂に終わるのかもしれない。 だが、最近聞きかじった話では、堀江社長の周辺には、2chにかかわる人間や、大手<個人>サイトの人脈がちらつく。いわゆる、祭りの仕掛け人たちの存在だ。詳しくは知らないし、近づくと恐ろしい世界だというので、あまり突っ込みたくもない。だが、ライブドアの買収は、正規の報道機関が、そういった人脈の手法を真似ることになりそうで、私には本当に恐ろしいのだ。 #
by fortuna21
| 2005-02-27 23:41
| ニュース雑想
去年から、テレビにやたら露出しまくっている細木数子だけれど、いい加減いなくなって欲しいと思っている。 もちろん、あのオバサンのことは嫌いなのだけれど、そんなありふれた芸能人の好き嫌いを超えて、テレビに出るのは好ましくないと思っている。テレビに露出する占い師やら霊能者は多いけれど、細木はその中でも群を抜いて悪質だと思う。 私がそう考える理由は3つある。 1.彼女自身の過去の後ろ暗さ。 一昨年の春ぐらいだったろうか。その日は3時ぐらいから土曜出勤せねばならず、沿線の図書館で暇をつぶしていた。そのとき、目にとまった本がこの本だった。 霊・因縁・たたり これでもあなたは信じるか 生活マニュアル本のようなカバーで、あまり面白そうに見えなかったが、ページを開いて読み始めてみると、さまざまなカルト商法の手口が、団体の実名を上げて取り上げて紹介されており、一気に読んでしまった。 進学塾、みすず学園の経営母体として有名なワールドメイトや、星祭りの阿含宗など、なかなか普段メディアで取り上げられることの無い団体の手口が仔細に紹介されていて、非常に興味深い本だった。その中には細木数子に関する章もあった。 銀座のホステスから成り上がった細木だが、占い師としてブレイクし初めてまもなく、陽明学者の安岡正篤と結婚している。安岡正篤は、戦前・戦後と、保守思想の大家として政治にかかわり続けてきた人物だが、その当時すでに80歳を超える高齢になっていた。 だが、この結婚のわずか2ヵ月後、安岡は世を去ってしまう。結婚当時、安岡には既に痴呆の症状が出始めていたとも言われており、当然、遺産目当てだったのでは、と目された。 その後、安岡の遺族との間で遺産をめぐる骨肉の争いが繰り広げられている。 遺産をめぐる話も、言うまでもなくきな臭いが、上記の本ではそれよりも、墓石の販売をめぐるトラブルについてページが割かれていた。 都内で電車に乗っていると、「世にも不思議なお墓の物語」という、なんじゃそりゃ、という看板を目にすることがある。この看板の会社、久保田家石材商店とタッグを組み、高額な墓石を売りつけていたというのだ。 相談に来た主婦らに、今のままの墓を使用していると、不幸になる、死んでしまう、とおそらくテレビのあの調子で脅しつけ、1000万近くする墓石を買わせていた。そして、そのことで裁判を起こされている。 今使っている墓石の形が良くない、そんなことでは祟りが起こるということらしい。買わせていたのは、載っていた写真を見たとき「鎌倉武士じゃないんだから」とツッコまずにはいられなかった、五輪塔型の普通の墓地では浮きまくること必至の、恥ずかしい形の墓石だった。 かえって死者に祟られそうである。 つまり、あの「地獄におちる!」という芸風にはもともと、「だけどこの墓を買えば大丈夫」という続きがあったのだ。 この本を読んでから半年後ぐらいから、しだいにテレビへの露出が増え始めて面食らった。「こんな人、テレビに出していいの?」と思わずにいられなかった。 後で分かった話だが、上の裁判の話については、原告の主婦らとは和解が成立し、久保田家石材商店とも現在は縁を切っているそうだ。とりあえず、限りなく後ろ暗いが、今では一応、過去の話ということらしい。 2.占いのスタイルに関する問題点 六星占術の占法や理論がおかしい、ということではない。そういうことは私の知る範疇ではない。相談者に対する態度に問題があるということだ。 現在、高額な墓を売りつけたりする訳ではなくても、あの「地獄に落ちる!」「絶対に不幸になる!」という物言いは問題だと思う。 私は占いそのものを否定する気はない。通勤通学前に、今日の占いカウントダウンをエンターテイメントとして楽しんでも構わないだろうし、対面して鑑定する占い師には、当たる当たらないは別として、カウンセラーとしての役割もあり、おそらく、そういう人の大半は真面目に相談者と向き合っている。 だが、もちろん中には悪徳な占い師もいる。こういう占い師と、一般の良心的な占い師を見分ける方法の一つとして、「このままでは、間違いなく癌になって死ぬ」「絶対に会社が倒産する」などと、未来の不幸を強調し、脅すか否かというものがある。 絶対に不幸になる、という脅しの先には、「これを買えば大丈夫」「この宗教に入れば救われる」という勧誘が用意されている。 まさしく、法の華の足裏診断がこれだった訳であり、カルト宗教の資金源となっている。 例えエンターテイメントであっても、脅しの占いが一般的なものとして受け入れられてしまうのは怖い。 3.価値観が保守的すぎることの問題点。 「家や土地の名義は、女の名前にしたらダメ」だの、「女は台所」だの言った発言には違和感やムカつきを覚えている人も多いだろう。 あまりTVを見ているわけではないのだが、一番驚いたのは、性同一性障害と診断を受けている人に対して、「男は男」と言い放ったことだ。 無理解にもほどがある。私は卒倒しそうになった。 という感じで3点挙げてみたが、普通は1点だけでも問題なはずなのだが、のうのうとテレビにのさばっているのは、如何なものか。 まあ、彼女は今年大殺界らしいので(笑)、もしかしたら今後バッシングが始まるかもしれない。 もちろん、芸能人のバッシングで国民的に議論されなければいけないようなことが隠されてしまうのはもっと困るのだが。 #
by fortuna21
| 2005-02-14 00:30
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